(中村佑介さんの手がけた装画)




ASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットや、 
「謎解きはディナーのあとで」などの小説の装画を描いている
今をときめくイラストレーター・中村佑介さんによるイラストのハウツー本、『みんなのイラスト教室』を読んだ。

本の中では中村さんが先生として「生徒」(実在の方々)の作品にコメントや修正を加えながら、
上手な絵を描けるようになる練習法ではなく、ある程度練習して上手くなった絵をイラストとしてどう魅せていくかについて指導している。
(練習を積めば上手く描くことはできるようになるからとのこと)


文章が冷静で論理的でわかりやすいのが意外で(イラストレーターの方の描く本というのをあまり読んだことがなかったので、、、)、読みやすくて面白かった。


生徒の作品はどれも綺麗に描けているのに、
なんとなく胸にウッとくる、どこを見たらいいのかわからない、何を表したいのかが説明がないとわからないといったものが多かった。


ポスターやCDジャケットで使用されるイラストレーションは、
美術館に飾られた絵画作品のように足を止めてじっくり見てもらえるものではないから、通り過ぎる人にも一瞬でメッセージを届けられる明確でわかりやすいものでなくてはならないという。

それぞれの目的に沿ったイラストにするために、
中村さんが生徒の作品画像を編集して、
色味を変えたり要素を整理したり配置や向きを変えたりしながらイラストを整えていく。 


その変更作業と変更理由の説明がわかりやすく、素人が読んでも、なるほどたしかにと納得できるものだった。

少し変更を加えただけでぐっと絵が見やすくなって引き締まり、ある意味では自己満足の「お絵描き」が見る人の目を意識した「イラストレーション」になっていく過程は見ていて面白い。


この中村さんの用いる数々の技術は本を読んで学んだようなものもあるだろうけれど、大部分の技術は職業として顧客の要望に応え世の中に受け入れられるイラストレーションを描くために、中村さんが現場で会得していったものなのだろうな。


中村さんのプロとしての冷静な視点に触れて、
職業としてのイラストレーター、商品としてのイラストレーションということについて考えさせられた。

中村さんは芸術とイラストレーションをはっきりと区分して捉えていたので、狭間のところで活躍している方もいるけれど、今回は二つを別のものとして考える。


自分は仕事やプライベートでイラストレーターの卵のような方々の作品を見せていただく機会がたまにある。

時々、この本に出てくる生徒たちの作品のように、綺麗で上手なのにずっと見ているとなんだかお腹のあたりが重たくなってきて落ち着かない気持ちになったりするようなイラストがある。

趣味の領域の絵としては十二分なのだけれど、商品として流通させるためにはなにかが過剰だったり足りなかったりする。

その過剰さはきっと、
その人の表現したいもの、こだわり、熱意がイラストの底の方でぶすぶすと燻りながら燃えているのが透けて見えているのだと思う。

その熱意はもちろん大切なものなんだけれど、その人と関わりのない人間には受け止めきれない重たいものだったりする。

芸術の分野ではその熱量が評価されたりするのかもしれないけれど、
イラストレーションは多くの場合において商品を流通させたりメッセージを伝える「手段」にあたるから、消化吸収しやすいもののほうがどうしても勝手が良い。


でも、そんなイラストの中の過剰さは、お金をもらって仕事をするうちにきっと剥がれ落ちていくのだと思う。


私はイラストレーターではないけれどお仕事を依頼させていただくことがあり、
またイラストに限らず他の仕事でも駆け出しの人たちにとって共通する気持ちがあると思うから、
ここからは自分の未熟な仕事の経験などを踏まえた上での想像の話になる。


イラストのお仕事を始めたら、自分の本当に表現したいものや自分の主義とは違うものを求められることが度々ある。

こんなケバケバしくてダサいものは作りたくないのに、依頼主はそのほうが売れるからいいという。このキャラクターにはこんな色は似合わないのに。
自分を裏切るような気持ちになりながらも、時間と戦いながらなんとか要求通りのものを描き上げる。

いつも納得のいく仕事ができるわけじゃないけれど、
たまに感謝されたり、世の中に受け入れられたりして、
自分の価値観に沿わない形で通用しているもののあり方もあるということを知っていく。

受け入れられるのならそれが正解なのかもしれないとか、自分のしたいことはこんなことだったっけとかそんな気持ちの間で揺れ動きながら、
自分の考えを通したり引っ込めたりしてバランスの取れる点を探しながら、日々コツコツ仕事をこなしていく。

そんなふうに続けていくうちに
自分の強い我や鎧のようなこだわりがポロポロ剥がれ落ちていき、
それでも自然に残っている自分の線というものがあることに気づく。


情熱の火は消えてしまったわけではなくて、人を威嚇したり疲れさせたりしない形に変わり、ひそやかに燃え続ける。

そんなふうに「線」は軽やかに洗練されていくのではないかしら。


中村さんのイラストを改めて見ると、たくさんの要素が細かく描き込んであるのに見やすくて、個性的で印象に残るけれど落ち着かなくなるような絵ではなくて、当たり前だけどプロだなぁと思う。

あと、同じようなゆるキャラは五万といても、リラックマの可愛さと無害さと存在感はやはり群を抜いている。
あの隙のないライン。
(リラックマって自分で描いてみると意外とめっちゃ難しいよ!)


多くの人の日常生活の中で自然と受け入れられているイラストレーションが持つさりげない力に時々はっとする。


受け取り側の人たちの眼はそれぞれ違う形状や大きさの穴を持つ網目のようなものだから、
たくさんの人の眼を通り様々な網の目でこされた絵やイラストはサラサラと吸収しやすいものになる。

個性的でありながらもしんどくないイラストたち。


文章にも同じようなことが言えて、仕事として文章を世に出す前には、できればたくさんの人(校正者とか)の網の目に通したい。



イラストレーションはひとつのメッセージだ。

確固とした(主に商業的な)目的を持った手段としてのイラストに宿る無駄のない「機能美」のようなものと、ふとした隙間に宿る「その人らしさ」のようなもののバランスが愛しい。

イラストレーションは芸術というよりも職人の技術に近いのかもしれない。





個性というのは爆発させたり勲章のように胸につけて見せびらかすだけではなくて(爆発の仕方が美しい個性というのもあるだろうけれど)
玉ねぎの皮のようなものを向き続けて最後に残る、小さく硬い静かな石のようなものかもしれない。


と、そんなことを考えさせられた職業・イラストレーターとしての中村佑介さんのプロ魂でありました。