どっちも自分でいうのはどうかって感じだけど、
私はわりと
頭が良くて(試験・偏差値的な意味で)、
馬鹿です(やんわり言うと天然)。


昔から、たいして勉強しなくても授業中に寝てても、テストの点はけっこう取れた。

それでしっかり者だと思われるんだけど、

壮絶な方向音痴で
入ったお店の出口がわからなくて、壁から出ようとするし(ドアって見つからなくない?)、
電車の中で起きてても気を張ってないと駅で降り忘れるし、
周りが見えてないし(オリンピックが開催中のことに1週間経ってから気づく)

しっかり者だと思ってたのに、、、と
最初の期待を良くも悪くも裏切ることになる。


それで、天然(馬鹿)には、
「いじられる」という特性がある。

ポロっと変なことばがでてきてみんながドッと笑ってくれると、
正直、
「やったーーーラッキー♪」って思う。笑

労せずして笑い取れた!みたいな。私、おいしい。

いじられる、のは嬉しい。

でも「いじられる」と「いじめられる」のボーダーはどこまでもグレーゾーンだ。

「いじられキャラ」が定着していくと、
「この人にはこんなこと言っても大丈夫」の幅が徐々に広がってきて、自分の陣地に侵略してくる。

まぁこういうキャラだし、
笑ってもらえるの嬉しいしってヘラヘラしていると
どんどん「つっこみ」はエスカレートして、
それは「いじめ」に似てくる。


「それはさすがにひどい」
「そんなこと言われたくない」
そういう不満があっても、
場をスムーズに流すために笑いながらお腹に溜め込んで、溜め込みすぎて嫌いになって、
自分から離れていった人達がいる。

相手からしたら、なにも言わずに距離を置かれて、「???」なんだよね。




いじり と いじめ の線引きはどこにあるんだろう。

考えていたら、

それは、どこまでも受け手の問題なんじゃないかと思った。

(そもそも発信者側に「いじめ」の意識があるのなら、
そんな関係にはすぐ見切りをつけて、なるべく早く遠くに逃げたほうがいいし)


「おなかでてるね」という言葉を
「ネタ」に転化して自ら笑いを取る人もいるし、
本気で気にしていて傷つく人もいる。

言葉を発するほうも、もちろんさぐりながら言うんだけど、
微妙なラインは
本人の受け取り方にしかないんだと思う。


自分でも自分のことで笑えるところもあるし、
すごく気にしていて傷つくところもある。
それは、他人にしてみたら「え、どっちも同じようなことじゃね?」くらいの些細な違いだったりする。

だから、
線を引くのは受け取り手だ。


嫌なこと言われて傷ついたら、
それはつらい、傷つく、と伝える。

伝えられなくても、せめて笑うのをやめる。ちゃんと不機嫌になる。(わかってもらえないかもしれないけど)

笑いながら、心の中でほんとは嫌なのってオーラをだしても、
なかなか伝わりづらいから。

我慢ってしつづけられないから。
どこかに出てきちゃうから。


私は、自分がなにかを嫌だと思う理由を、いつも論理だって説明できないといけないと思っていた。

私は、そのような扱いは不当だと考える。
なぜならば、、、(原稿用紙400字詰×3枚分)

そこに入れられる「客観的な」理由なんて、友達が言ってたから、とか、世間(というのもふんわりしている)的にそういうもんだから、とか
そんな程度だ。

それよりも、自分の気持ちを伝える。

論理立っていなくても、
その程度で傷つく自分って
心狭いな、弱いな、空気読めないなって思っても、
ちゃんと嫌がる。

ちゃんと怒って悲しむことで、自分を守る。

我慢しても、最終的に関係を壊すだけだし、
ほんとの気持ちを言って離れていく人だったら、早めに去ってもらったほうがいい。


ここまでは笑ってくれていいけど
これはイヤ!
どうしてもイヤ!



自分を殺してまで守るべき「空気」なんていらない。

一貫性のある「キャラ」なんて必要ない。


自分をちゃんと守って、
ちゃんと自分でいることで、
大切な関係はきっと育てられる。


いじるほう、いじられるほう、
どっちが悪いとか、どっちの責任とかじゃなくて、
避けられるものなら避けたい。



楽しいときに笑う。
嫌なときは笑わない。
そんな些細で意外とむずかしい修行の道。